人生2度の定年、そして
当時は「薬局経営者の長男は薬学部へ」という考え方が、父にも社会にもあり、自分もうすうす感じていた。
戦争が終わり3歳の年に母のふるさと鎌倉で製薬会社を辞めた父が薬局を開いた。どちらかというと文系志望の高校生田辺は、頭を切り替えて猛勉強し大学の薬学部に合格、同じ道に入っていく。
そろそろ将来に思いをめぐらせたころ、大学の図書室で世界のがんを記した本を見つけた。治りにくい病気、それを研究する人が何と少ないことかその実態が記してあった。
「あのときは、漠然とがん対策に貢献したいと思っていた」と田辺は言う。22歳、高度成長が走り出したころのふとした思いだった。
社会が高度成長期にあり、就職難ではなかった。成長が期待される大手合弁外資医薬品会社への就職の誘いに応じた。日々の仕事に追われ、しばらくすると、がんのことは忘れていた」という。
「人生、定年は2度」というある経営者の考えに共感したのはまもなく入社20年目になろうとしたときだ。自分としてはわが人生は順調だと思っているが、頭の片隅を「これでよいのだろうか」という思いがかすめ通っていた。しばらくすると、海の向こうでは人員整理の声も出始め、経済は混乱を予感させた。
東京銀座の本社で営業を統括し、最前線の情報を手元に医療関係者からの問い合わせを一手に引き受けるカストマーサービスが長かった。血液検査、尿検査など患者・家族の診療に欠かせない数々の診断薬や装置を使う医療者からの問い合わせに神経を使い続ける会社生活だった。
「社会の雰囲気は、がんを何とか食い止めなくてはいけないということでした。しかし、いまの自分の立場ではなかなか力を注ぐことは許されなかった。それでも間接的に協力しなくてはと40代後半まで思い続けていました」
がんの死亡率が高まり、死因のトップになった時代だ。医療が飛躍的に進歩したとはいえ、命を守る使命に技術がなかなか追いつかないことにやきもきしていた。
田辺がリレー・フォー・ライフを知るのはしばらく後のことだが、「人生2度定年」という言葉との結びつきを強く持ち続けていた。盛り上がった最初の新横浜リレー・フォー・ライフを支えた人々はそれぞれが最大の努力をしたと後の語り草になるほどだが、喜びの裏に大変な苦労もあった。
まだリレー・フォー・ライフの開催地は少なく、希望に燃えて全国から仲間や企業ボランティアが大勢新横浜に参加した。一方で、準備や終了後の片付けに悲鳴も上がった。そんな光景を田辺は目の前でみていた。だからこそ違う方法でできないものかと、2度目の定年で開いた中国茶の店の中を切り盛りしながら、いつも考え続けた。
通勤の電車の中でふと目にした中国茶に誘惑されたのは、長い間に培った薬の知識と健康志向、それにちょうど50歳を過ぎて現実味を帯びだした次のステップへの挑戦心がないまぜになってのことだった。
知る人ぞ知る岩茶「白鶏冠」を求め、中国福建省の研究所を訪ねるほど夢中になる。中国茶を知らしめたい一心と、「人生2度定年」を考え合わせ、会社を退職し、自宅のそばに中国茶の店を開いた。
良いお茶がありますかと次々に客が顔をみせる。充実した日々だった。そのうち、ついこの間まで顔を出していた若い人が亡くなっていく現実と向き合う中で、学生時代から気持ちの底に沈んでいたがんを何とかしなくてはいけないという使命感が次第に浮かび上がってきた。
何ができるかを模索する。行き着いたのは、リレー・フォー・ライフだった。
2006年秋、筑波大学のグラウンドは夜半までの雨がうそのように上がり、暑すぎる一日になった。リレーコースには田辺がいた。妻をがんで亡くし、国内での初開催をめざして熱心に動き回っていた、大隈憲治が大阪から駆けつけた。彼らとともに日焼けしながら歩く人々に冷たい水が入ったペットボトルを手渡していた。
リレー・フォー・ライフへの思いは深まっていく。2007年に早稲田大学の所沢キャンパスで芦屋のサテライトを開催、翌年からは地元横浜に標準をあわせた。
横浜2009は9月に予定された。開催3ヶ月前に急きょ、実行委員長が病院再発のため、田辺が実行委員長を買って出た。目の前にはしなくてはならないことがたくさんある。準備のための時間は少ない。
少ない人数と猛暑。ポスター掲示を市交通局へ、県下の小中学校で掲示をしてもらうための認印を400枚押し続けて手がしびれた。郵送、資金集め、食事手配、金銭管理にてんやわんやだった。
さらに2010も実行委員長を引き受けた。
――田辺流、実行委員長のリーダーシップって何ですか。
「リレー・フォー・ライフには、それぞれの人が思いを込めている。実行委員も参加者も。したがって型にはめてはいけない。一人一人の力を信じたい。よく話し、その後はじっと見守って、方向が違えばまた話し修正する。みんなボランティアだけど、一度やるといってそれができていないときもある。そうしたら、また話す、ですね」
――いま、リレー・フォー・ライフにどんな思いでいますか。
「この名前がもっと知られ、多くの人が、あーあれっというぐらいになればね。理想だけど、町全体が日常のようにこれを考えるといいです。そのためには、みんなで広報活動をしなくては。そこで、やろうという人が集まってくるんです。底辺を広げる第一歩だと私は思っています」
「大きなことを考えずコツコツと伝えることでしょう。開催のためのノウハウを公開し、より透明性を持ったリレー・フォー・ライフになるように、やりたい人の支援をし、やれるという自信を持つ人をつくる」
このところ時々、神奈川県の大学のあちこちに、田辺の姿がある。横浜、川崎、そして横須賀のキャンパスでミニ講演をしかけている。リレー・フォー・ライフでできた人脈で、福祉、保健、看護、医学などの学生に語りかける。地区センターでも健康講座の中でRFLの話をするつもりだ。
9年間続けた中国茶の店は経営の難しさもあり、ほぼ店じまいではある。2度目の定年に区切りをつけたいま、「これは財産だ」と思っていることがある。それは、中国茶を通して得た顧客リストが5000人にのぼった。さまざまな分野との接点はサラリーマン時代にはなかったことだ。
そして、リレー・フォー・ライフ。ここでできた友人たちと残された人生をながーく歩みたいと思っている。
(敬称略)