種をまく夫婦
マリアは、こう助言している。
「大丈夫! 冷静に考えましょう」
すると質問者からこんな話が寄せられる。
「生存率や余命について、緩和ケアの考え方、目からうろこでした」
マリアは、どんなときも言葉を選び、ていねいな心遣いで語り続けていく。
寄り添いながら、こうも言う。
「お母様とお二人の時間が続きますように」
「東京のマリアさん、ほっこりしました」
顔を知らないけれど、お礼の言葉には心が落ち着いたあとの温かみがあった。
テレビの福祉番組をきっかけにできたインターネット上のやりとりの場は、患者やサポーターの率直な声が飛び交う。
大切なテーマあり冗談ありの気さくな空間だが、「医療関係者 マリア」と書きこむ彼女の意見は、率直かつ貴重で重みがある。
リレー・フォー・ライフの存在を、マリアはこの場で知った。栃木に住む60歳の肺がん患者は「100m歩くことができた時のうれしさ。あの姿をみんなに記憶して欲しい」と、茨城で開かれたRFLつくばに参加した喜びの体験を記し、感激を語っていた。
それをきっかけに、マリアは動いた。
テレビで知るつくばや芦屋のリレー・フォー・ライフで、患者は友人たちに肩を借りながら歩き、とてもいい顔だった。
マリアとその患者との交流が始まった。
マリアが「私にできることがありますか」と呼びかけると、放射線治療による副作用に悩む患者から、「今の状態がよくなる方法を探すことはできないか」という訴えが返ってきた。
マリアこと鈴木俊子。彼女は、このブログ上では医療関係者で知られている。
医師のそばで記録を取るポストは特殊な医療知識がいる。
検査をするとき、その意味、手順、入院の必要性を患者に話す役割には、医師と患者双方との意思疎通が欠かせない。
医療秘書と呼ばれるこの仕事は、医療連携、相談と貴重な存在だ。患者・家族の気持ちに寄り添う病院での仕事を30年は続けてきた。
少しでも役立ちたいとリレー・フォー・ライフに飛び込んだ。
歩くこと、夜を越す意味もよくはわからないまま、救護班の作り方など一つ一つを、RFL横浜の会場で観察した。
友人がホームページをつくってくれる。迷いもあるが、患者や家族たちの笑顔が実にやさしい。
しかし一方で、どうしたら開催にこぎつけることができるのだろうか、と考え続けた。
「これは一人でやらせるとつぶれる。手伝わなくてはと思いました」というように、夫隆二は妻の体を気遣いこそすれ、進んで立ち上がったわけではない。
東京で高校の国語教師を37年勤め、退職してまもなくのことだった。親しい教員仲間たちも協力を約束してくれ、「よしやろう、と思った」という。
横浜では驚きの光景をいろいろと見た。「自分が知るがん患者はああいう顔ではなかったので、これはどういうことかと考えさせられた」という。
国内でリレー・フォー・ライフを開催するには、国際基準を守る必要がある。米国か日本のトレーナーによる講習を聞いた実行委員会で柱になる人びとが、仲間にその心を伝える。
夫婦は2009年春にACS講習に参加し決意を新たにするが、「こんなことができるのか、とやたらプレッシャーを感じた」と振り返っていう。
会場探しは難航した。故郷の川越が頭にあったが、途方にくれた。
ここぞと目をつけた公園を借りようと話にでかけたとき、規定や規則が立ちはだかった。
本庁、福祉課、医療課、保健センター、秘書課と、あちこちまわされた。
これは良い企画、ぜひここで実現してほしいと担当はいっても、調整セクションはあっちです、こっちですといわれ、さんざん歩き回る。
万策尽きたかと考えながら帰途に着くとき、水上公園の表示が目に入った。
立ち寄ってみた。
「良い人に会うことで事態が大きく変わることを実感しました」
夜通し、火の使用などなど、規制はあっても趣旨をよく話すと責任者はどんどん枠をはずし、その場で前向きな答えを出してくれた。
やっとこぎつけた川越2009の初日は、順調に進んで夕闇が迫り、張り詰めた雰囲気はすでに居心地がよい場に変わっていた。
美しい芝を囲むコースで人びとは華やいでいる。運営状況を細々と気遣う鈴木夫婦の姿をみた仲間の一人は「夢遊病者のようだね。倒れなけりゃいいが」と、4日間ろくに寝ないで掲示や受付資料、進行の確認をした2人を気遣う。
リレー・フォー・ライフに導いてくれた栃木在住の患者を川越に呼ぶことをめざしたにもかかわらず、体調を崩して姿を見ることはできなかった。
「一年延ばしたら来られない人もたくさんいる。何のためにやるのか、自分がリレー・フォー・ライフをどうしてしようと思ったのかを、いつも明確にすることを心がけたいと思いました」と、実行委員長を務めた妻は言う。
隆二は主に受付あたりにいた。
「余裕がなくて、ほとんど歩くこともできなかった」
俊子は、全体を気にかけて動き回りながら、「無事に終わって」と願っていた。
終盤はとくに苦労した。
「正直なことをいうと、散々苦労したのに自分はいったい何をしていたのか、得たものは何かと思ってしまった」(夫)と、けっして愉快な思い出にはなっていない。
閉幕から3日が経ち、生ごみをトラックに積んで焼却場に運ぶことになる。心も折れそうだった。
やってよかったと満足感にはほど遠い結末が待っていた。
ではなぜ、次の年に2回目が実現したのだろう。
夫婦は、種を蒔くことを心がけてきた。
「その点では意義があった。できればその芽を育て地元の方たちを中心に引き継ぐのが良いと思っていたんです。閉幕後、また川越でやろうという声が上がったのはうれしかった」(夫)
「つながったんですね。もしがんになったとき、川越にいて良かったと思うことができればうれしいでしょうね。地域連携の根元にリレー・フォー・ライフがあれば」(妻)
夜が明けてまもない会場で、散歩にきた近所に住む女性が「これ、何をしているんですか」と尋ねてきた。
俊子が趣旨を説明すると、涙ぐみながら、自分の娘が6歳の子どもを残しがんで亡くなったと明かした。
「寄付をいただいたんです。すごく感動しました。そういう人の支えになっているのがリレー・フォー・ライフなんでしょうね」と、俊子は振り返って言う。
2年目は初回よりうまくいった。心身ともに楽だった。
3回目の2011年は川越勢にバトンを渡す。そして、お互い副委員長と実行委員で残る。
「これから自分たちのスタイルは、クッキーを焼いてきたり、歩く人たちに声をかけたりでしょうか。リレー・フォー・ライフをじっくり見ていないので」と楽しそうに笑った。
(敬称略)