人に会える、誰かがいる
くつろぎ、細工物に夢中になるいつもの居間に腰をおろし、身長175㎝の偉丈夫は日焼けした柔和な顔を開け放たれたガラス戸の外に向けて、口を開いた。
「何も自慢はないが、この景色はいいでしょ。あの姿が変わらず、いい」
はるか先には、目の高さに山影がくっきりと映し出される。それが、山深い相木村と高原野菜で名を成す川上村の境界あたりに屹立する山々であることをうかがわせている。山の名は「男山」。
生まれて77 年、故郷の長野、そしてこの地・佐久穂町の旧八千穂村で見慣れている。
がんは闘う相手というより、付き合うものと考えてきた。傍目には壮絶なのだが、本人は、「悩んだってしかたがない。困った、困った、どうしようと口にしてもよくはならないですから」と淡々としている。
「我が人生訓 妻・子へ」とし、胃がんを手術した後に、自分流7 つの教えを記した。その一つが、<泣き言、不平、不満は減に慎めよ>。
堂々としていたいと、いつも考えてきた。
篠原利一の病歴を、本人の了解を得てつづってみる。
・65歳、肺にがんの疑いあり。
<最先端の3 つの病院の教授たちは、肋骨12本をはずしてすぐに手術をという派、様子をみようという派に分かれ、結局そのままにした。4㎝ほどの影は11年がたった今も変わらない>
・70歳、胃がん
<30年ほど、胃潰瘍と付き合ってきた。しかし、それとは違う症状です、と医師はすぐに手術することを主張した。5分の3を切除する>
・72歳、胃がん再発
<体力を考え、内部から削り取る程度の簡単な手術。本人は「おつき合い」という>
同 胃がん再々発
<おつき合い路線でそのままにする>
・74歳、食道がん
<検査でわかる。十二指腸とつなぐ案が示されるが、おつき合い路線選択。3年たち大きさ変わらず>
・76歳、咽頭がん
<検査でわかるが、同じ路線を選択する。1年たち大きさ変わらず>
・77歳、大腸がん
<検査で数個のポリープ。がんの可能性ありの診断だが、医師とゆっくり路線選択>
肺がんだと告げられたとき以来、「疑わしきは切ろう」という考え方が好きになれなかった。「手術をしなければ命の保証はない」とまでいわれたが、「体が動かず、命はあっても黙って座っているだけの姿はいやだと思い続けていました」という。
がんの大きさが変わらないといっても、確実にそれが体を蝕んでいる。現実を考えながら、検査で安心と不安を繰り返してきたこの10数年だった。
町や村の患者たちとの病気上での交流は、とくにない。愚痴のこぼしあいは、あまり好きでないからだが、気に入りの仲間たちをとても大切にしてきた。それが、リレー・フォー・ライフが好きな理由でもある。
篠原は自らを「無鉄砲」とよくいう。本来は強い肉体を、若い時からいじめてきた。海上自衛官としていつも統率をとる中心にいた。ドッグ入りした船内の部屋が耐えられぬ暑さで眠れないと甲板に寝た。急激に冷えたその鉄板で体調を崩し、突発的と自分では思える痔の手術をしてくれたのが、竹中文良医師だった。
日本赤十字医療センターの外科部長でのちに日赤看護大学教授を務め、故人になる前に菊池寛賞にも輝いたその恩人が、心血を注ぎ実践活動を知づけた組織、それがジャパン・ウエルネス(現在は、がんサポートコミュニティー)。がん患者支援活動を続けてきた恩人に、今度はがんを相談した。そのとき、ウエルネスのメンバーを通しリレー・フォー・ライフの名前を知った。
リレー・フォー・ライフin 東京は2007年9月、秋とは思えない寒さと風雨との闘いでもあった。横なぐりの突風に傘など何の役にも立たない。雨天決行とはいえ、厳しい天候に、ウオークの始まりは遅れた。勢いがやや衰えるのを待ちスタートした。その先頭に篠原はいた。
「何だか、いつも最初とか一番という位置にいる。たとえば、戦前の国民学校一期生、戦後の新制中学一期生、東京のがん専門クリニックで受けたペットも個人で初めて。何の自慢にもならないが、そんなめぐりあわせがありました」
東京・お台場でのリレー・フォー・ライフのあの日、篠原は仲間と会いたさに会場に来た。語らい、歩き、語らい、また歩く。それを、したかった。「大勢の知らない人たちが会場を支えている。そこには仲間がいるし、自分がいる。会場に身を置いて体験することによって初めて、自分だけではないことがしみじみとわかる。これがリレー・フォー・ライフでしょうね」
「仲間が支えてくれる喜び、支えられる方は元気をもらう。むしろ我々サバイバーは、感謝をしなくてはならない。知らない人に、このことをぜひとも味わってほしい」
夢と希望を感じながら足を運んだ篠原は、実は夢と希望をみんなに与えていた。
このときの体重は50 キロ。若い時から激しい人生を支えた、64 キロの体格に衰えを感じてはいた。しかし、横浜では20周を歩いた。「ありがとう」とみんなへのお礼を胸に秘めながら。自衛官の紺の帽子に背広姿、革靴で8キロにもなる長距離に挑む姿は、異様な熱気さえあった。
その姿は、翌年のさいたまにもあった。
「人に会える。誰かがいる。でもね、リレー・フォー・ライフに限らずですが、いつも帰りの電車の中で思うんです。専門家が自分の生き方に賛同したことを言ってくれても、自分では生き方にとても満足していない。俺という人間は何と偏屈かといつも思っている」
リレー・フォー・ライフの熱気を浴び、思う存分に楽しみながらこれだけ闘ってもなお、自己評価は厳しい。
何だか、悲痛な闘いと思えるのだが、篠原はこう自己分析をする。
「自分のいうことは学問的なことではないんです。がんの洗礼かもしれない。がんになり、がんとつき合いながら生きる方法を身を持って憶えてしまった」ともいう。
情、力、導、真、和。こんな文字を昔から好んでいる。病気と付き合うようになり、ますますこういった文字が好きになった気がする。気晴らしにと、ドウダンツツジの葉などで押し花をつくる。
自宅の庭で、アサガオ、ヒャクニチソウ、テッセンをつくり、それも押し、押しまくる。
5 年前にふと思い立ち、本人はこの趣味にはまった。自然に魅かれ、ありのままをこよなく愛してきた。本人の弁だと「いたずら」となるこの趣味は、体調の悪さを少しでも紛らわしたい気持ちで始めた。「もともと、動いていなくては気が済まず、今でも決して寝ころぶことはない」と、妻郁子はいう。
さわっただけで破れるアサガオをどうしたら上手に押し、生き物として輝かせることができるのか、試行錯誤を今も続けている。教科書はなく、指導者もいない。土から採りあげる時間帯、光や温湿度、気圧の変化など、微妙な組み合わせをいつも頭の中で考えている。
自らハンドルを握って車を5 分走らせ、妻を誘って畑に向かう。夫は、鍬を手に動き回るのがもう一つの楽しみだ。「ネギがよくできても採る体力がなくなってきた」と夫がいう一方で、「私はいつも草取り」と妻が口にするほど、自らが手をかけないと気が済まない頑固ぶりは、若い時分からいっこうに変わらない。
53 歳で1985 年に退官するまで長年在籍した海上自衛隊には、いまだに思いが強い。太平洋戦争で兄が海軍を志願したのをみて、子供心にも海で生きることを考えて育った。
戦後21 歳で自衛官になり、大陸から舞鶴に戻ってきた最後の引き上げ船を出迎えた。横須賀をはじめ六本木の中心組織にも、練習船で遠い海上にも多く出た。「趣味は転勤でした」というように、33 年間に28 回転勤したのは、鍛えられた体があったからといえるかもしれない。
「胃がんになったとき、来るべきものが来たと思いました」。ステージⅣで、3 カ月が一つの節目だろうといわれ、命のあり方を医師と議論を続けた。必要な部分は手術をし、がんと付き合う道を選んだ。決められた検査をきちんと続けながら、体を見守る作戦を続けた。
この点は、防衛という闘いを頭に暮らしてきたのとは少し違い、命と人生を考えながら相手とつき合おうという戦術だ。
リレー・フォー・ライフは、知らない人同士が友達になる楽しみもある。これもまた、大きな目的だ。
「誰か仲間がいる会場に行き、自分で体験することによって、自分だけでは生きて行けないことがよくわかる。支える喜びを、実行委員会の健康な方たちは感じているでしょうが、支えられる方はたくさん勇気をもらう。負けてたまるものか、と感じますよ」
篠原は、集う舞台をしつらえてくれる人々に、サバイバーもまた、感謝しなくてはいけないと感じている。
「郁子さんを誘い、リレー・フォー・ライフに参加してはどうですか」と尋ねてみた。すると、こんな答えが返ってきた。「いやぁ、それはないですね」。頑固ぶりを再確認した口ぶりだが、笑顔をたえない。
闘病は、妻など家族の支え無くして成り立たない。家族の闘いでもある。そのことは、篠原もよくわかっている。それでも、家族に礼をいう直截な言葉はなかなか、発しない。
ケアギバーを大切にするのもまたリレー・フォー・ライフ。世界的に今後も力を入れる部分になってきる。家族の大切さは大事なテーマになってきた。
少なくとも人前で篠原が郁子へ面と向かって感謝の言葉を告げる場面は、きっとない。闘病に入り、11 年3 カ月余りが経つ。表向きはあくまで「自らの体中心」と持論を譲らないが、その笑顔には「恥ずかしくていえませんよ」と書いてあった。
(敬称略)