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室蘭

その精神は、みんなが実行委員長

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リレー・フォー・ライフ
室蘭2011実行委員会
支援者の仲間たち
金子健二、小田中稔さん
山口雄平、五十嵐和恵さん
古口友紀子、鈴木強さん

開会式が、おなじみになった「トラック舞台」で始まろうとしている。荷台のわきの留め金を外しておろした屋根付きの舞台は、リレー・フォー・ライフ室蘭を象徴する。ここから全国にトラック舞台方式が始まった。

やはり名物の海から追いかけるように迫りくる霧がじゃまをし、半島の先はなかなか容姿をみせない。しかしこの日ばかりは、遠く函館あたりをうかがうことができる。

どうかすると羊蹄山にも目が届く美しい場所に、次々と持ち込みのチームテントが組み立てられていった。落ち着いた渋い色合いの風景が、カラフルなリレー・フォー・ライフ色に変身していく。

湾をまたぎ翼を広げたように美形を青空に浮き立たせる白鳥大橋のたもとを囲む敷地は、もともと鉄鋼の街の工場群が裾を広げるはずだった。急な不景気風に市の思惑がはずれ、空き地は腰までの雑草が幅を利かせていた。今や8 月末のこの時期だけは、リレー・フォー・ライフ室蘭に参加する仲間たちにとって絶景、空き地にとっても殺風景なふだんとは違いひときわ華やぐときである。

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「この紫色のシャツを着ているのが実行委員です。困ったことわからないことがあれば、私たちに聞いてください」
何と頼りがいのある、やさしい言葉か、アナウンスの声に自信があふれている。開幕直前のひととき、遠く関西や関東から珍客の姿もあり、参加者たちの笑顔はますます広がっていった。

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小田中 稔さん
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実行委員長 金子 健二さん

「荷台の借り賃は2 日で一万円、これさえももったいない、という意見があったぐらい節約意識が強いのです」と実行委員のひとりは言う。

草刈り(体育協会)、会場地ならし(建設会社)、テントや机・いす運び(ピアノ輸送)、毛布(ふとん店)などと協力者が進んで苦労を買って出てくれた。テント組み立ては屈強な生命保険会社の男性たち、ルミナリエ準備は看護学生、マッサージは病院と、貴重な自分だけの24 時間を、がんの仲間たちのために提供することに賛同し、やはり協力を惜しまない。

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鈴木 勉さん
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山口 雄平さん

それぞれができることを考えている、その結果ボランティアが成立し、そして世界のあの地で発祥した当時のリレー・フォー・ライフの原風景を思わせる、素朴で熱い意思が貫かれ、わいわいと言いながら準備が進んできた。

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五十嵐さん=左・古口さん=右

実行委員長の金子健二は今年のリレー・フォー・ライフを通し訴えたいことがある、と言った。
自分の思いをせんじ詰めればと言いながら、こう表現した。
「一人で生きてはいけない。自分の家族を大切にすることに気づいていただきたい」
がんに気をつけてと呼びかけることなど、リレーの趣旨はもちろん深く知ってのことだが、想像もせずに一家に近づいて暴れまわり、ついに迫ってきた妻との別れが、人のつながりの貴重さをつくづく実感させたからだろう。

妻明美34 歳、夫健二39 歳、小学生の長男、生まれたばかりの長女という、金子家の平和な暮らしが札幌で続いていた。夫は長年勤めた自動車会社から内装業に転じ、妻は看護師としてフル回転した。大好きなアウトドアを週末に楽しみ、いつもみんなが寄り添う楽しい家庭だった。

6 カ月です、と医師が限られた命を切なく宣告したのは、忘れもしない2003 年5 月のことである。医師が何と言おうと治してやる、と夫は誓いに似た激しい感情を今でも忘れていない。一緒にボロボロと泣いた。

手術を終えてしばらく経ち、態勢を整えなくてはならない、と妻の実家がある伊達市に転居、通いながら室蘭の病院で厳しい治療が始まった。頼りがいのある明美中心の家庭だった。その柱である明美は、弁当作りから一切の家事をこなしながら、自分で車に乗り点滴に通った。愚痴もいわない、弱音も感じさせない。しかし、病巣はあちこちに広がり、抗がん剤との追いかけっこが続いた。

むろん家族や友人の励ましが何より力強いが、闘病には仲間も欲しい。インターネットで知り合った知人が、リレー・フォー・ライフというものが東京で開かれるという情報をもたらしてくれた。
2007 年秋に予定された「in お台場」は、その秋の「in 芦屋」に続くもので、国内で開催した二つ目になる。東京は遠いけれどぜひ行きたいと思ったのは、先の見えない叫びたくなるような寂しさのなかで、自分として支えになるものを探している時期だった、と健二は言う。
「行きたい、行ってもいいかな、パパ」
「みんなで行こう、ママ」

何だかよくわからないが、何だか出てみたい。
患者会のメンバーとして、チームピノコに入り、4 人で東京に来た。台風を思わせる猛烈な風雨にも負けない熱気を会場で感じた。
24 時間の最後のゴール地点、杖をつきながらひときわ遅れてやってくる明美の姿を、晴れ間の見えだした遠い空が映し出し、大空の下でその姿に大きな拍手が響き渡った。

「パパ、北海道でやりたい」と、飛行機で夫に話すほど上機嫌な妻の姿に、健二はうなづいた。
娘のランドセル姿を見るまでは、というのがそれまでの口癖だった。がん患者会活動は活発とはいえない北海道で、自ら患者会「フォーエバー」をつくりつながりを求めた。経済的な支援も期待したがん条例を模索した。リレー・フォー・ライフは、新たに加わった目的だった。
健二は言う。
「やりたいといったことは、やっちゃうんです。ありのままの自分を表に出すことで、患者や家族の苦悩を世の中に理解していただこうというやり方でした」
小細工をしない、直球勝負は生来備わっていたものなのかもしない。

治療費がかさみ生活設計を急激に変更せざるをえない切迫した現実、高額療養費の手続きの矛盾、がん条例がないために理解されない世の中の目。夢を得るために計画した住宅の資金を抗がん剤に充てつくし、離婚すれば生活保護を受けられるかもしれないという話を必死な思いで考える気持ちの変化。すべてを自らの体験だからこそ、腹から湧き出る話に、多くの人々が妻の動きを追うようになる。
北の大地で初めて開催された2008 年8 月、初体験の企画、運営に、激論が続いた。それは生み出すことのむずかしさをも感じさせたが、実は明美の采配と調整、それを支えた仲間たちの力で立派なものに仕上がった。節約や素朴さ満載のその精神に加え、発展的な取り組みが随所に盛り込まれた、新たな室蘭を感じさせるさわやかなものだった。

今年8 月、会場で駆け回る実行委員の多くは、明美の話に共感しリレー・フォー・ライフに当初
から寄り添ってきた仲間だった。
「私の両親はがんで亡くなった。気づくのがもう少し早ければと悔やまれてなりません。リレー・フォー・ライフの認知度が増し、検診の重要さを多くの人に知って欲しい。そう思っていたので、初めて知った時これは続けるべきだと思いました」と、消防出身で熱い気持ちの持ち主、室蘭市議小田中稔は言う。
一方で、「意見がぶつかっても、楽しくなけりゃね。それぞれが実行委員長という気持ちでしっかりすればよい、と私は思うのです」と精力的に動きまわる。
「がん患者が一人でも減って欲しいとつづった明美さんの呼びかけ文を読み、そうだなあと思いました。意見の相違があっても最後の最後はやってよかったな、と思えるものにしていきたい」
IT や広告業界に身を置く30 歳の若手山口雄平は、街づくりとも重ね合わせて見ている。

近ごろ、健二は「家族」というものをますます意識している。
2010 年正月に逝った、亡き妻をひとときも忘れてはいない。
治療に専念するため転居した後に探し回って得た燃料販売の仕事は、良い仲間に恵まれ、気分よく職場での日常が過ぎていく。
家に帰れば、子どもたちのご飯作りをするのだが、その時間が仕事で遅れることがよくある。食事、風呂、就寝のサイクルが違い、子どもたちの小さな胸にストレスが広がっていないだろうか。
夕餉のひとときに、学校での悩みを話したいのかもしれない。忙しさを口実に自分で家族づきあいに甘さがでていないだろうか。
自分にも、ストレスが襲ってくる。
妻の葬儀が終わり半月ほどしか経っていない昨年1 月末、健二はみんなに問われ、その場で実行委員長をやると宣言した。
「みんなに応援してもらいながら明美が築いた城の砦を守りたかったんです。無くして、たまるかって。死を悲しみ通すより、大事にしてきたリレー・フォー・ライフを続けることで前向きなものを感じようとしたんでしょうね」
「やってよ」
「おれでいいならやろうよ」
軽い会話にも、重い思いが込められていた。

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< 24 時間の「命のリレー」 あなたと歩くその先に 勇気と希望をつなげたい>
<リレー・フォー・ライフ2011 >
ゲートにこう記された看板の文字は温かい。
鈴木強が、ガァガァ、ギッギッとねじを板に打ち込む。妻をがんで亡くし、リレー・フォー・ライフに思いを寄せて、本職のペイントや得意な絵画で役立つことを心掛けてきた。その技が、スタートやゴールに華やぎをもたせる。木製の手製ゲート、虹を感じさせるリボン、手形でのメッセージを温かく包みこんだ手助けをする姿もまたおなじみになった。
「一年に一度しか会わない仲間がほとんどだが、ここに来れば会えるという気持ちもある。自分で出来ることしか出来ないけれど、やりますよ」と、応援者の決意はうれしい。
風でリボンがたるみますね、土嚢を入れ忘れたなど、と笑いながら軽く修正を要望する声に耳を傾ける。そんな声を聞くとすぐに応じ、まもなく、とんとん拍子に木製の門をつくりあげていった。

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歩き続けるチームは、夕刻から準備されるルミナリエの絵や言葉を楽しみの一つと考える。直線から左カーブに入る150 メートルのコース角付近に、金子一家が明美に向けたメッセージがあった。
<ママ、天国で元気ですか? ゆうなは元気です。 ゆうなより>
虹の上に立って花に水を与えるママの姿が描かれている。
<ママへ、優奈のことは心配しなくていいからね>
<じじへ、ママのことよろしくね>
< forever  がんで苦しむ人がいなくなりますように 金子健二>
そのそばに立つ本部テントで、事務局長の五十嵐和恵が言った。
「なんでここにいるのか、この催しは何を目指すのか。それをみんなで議論して確認していく必要があります」
いっときも早く北海道にがん条例をと動きまわる明美が、五十嵐に相談したことが二人の縁の始まりだった。激しい議論でけんかにもなった。そしてこれ以上はない親友の絆ができた。道議会議員秘書として事務所の切り盛りをしながら、五十嵐は明美に寄り添いながら、リレー・フォー・ライフを支えてきた。

2日目の夜が明けて、日曜日の朝もしばらく経った。舞台での司会を一手に引き受けてきた古口友紀子は、疲れを見せずに言う。
「連帯感ができるんです。冗談を交えながらもけっこう熱い議論がある。全く意見が違っても、やろうよという雰囲気になっていく。間口の広い付き合いができている」
臨床検査技師として忙しい毎日を過ごしながらも、仲間を大事にし、温かくこの舞台を見ていきたいと思っている。

がん条例の雲行きは少し晴れに動き、登場が期待される気配になってきた。
家族のルミナリエが集まったコーナーから少し離れ、こう書かれた一枚があった。
<北海道に必ずがん対策条例を! ママの願いは守る 天国で応援してね 優奈パパ>
どうやら、気持ちが通じたのだろうか。
そして、こんな一文もあった。
<今も心の真ん中にいる ママへ。リレーはつなぐよ ゆうな、よしひろ、パパ>
わきで、閉幕の歌「ビリーブ」の大合唱が始まった。
<♪たとえば君が傷ついて くじけそうになった時は~~>
何かは消えても、何かを残してくれた。
                   

(敬称略)